この日記について2022年10月23日 07時56分

世の中の文章には、さまざまな作品があり作風があり、構成があり文体がある。筆者の人柄が表れることも多い。文章が書かれた目的もさまざまだ。小説もあれば論説もあり、宣伝もあれば個人的な趣味もある。文章を書くのに厳密なルールはない。正しいとか間違いとかがない。多種多様だし、多種多様であってよい。

アサブロに開設したこの日記は、他人に読んでもらうためのものではない。私が文章を書く実験をするために開設したものだ。私自身の文章の可能性を拡げたい、高めたいと思ったからである。つまりここは、英語でよくいわれる sandbox 、いわゆる「チラシの裏」だ。

文章自体の可能性を実験するのが目的なので、この日記ではインターネット、ウェブ、電子媒体特有の技法を用いることをなるべく避けたいと思っている。例えば「フォントいじり」がそれである。このような技法はテキストサイトの可能性を切り拓いたものだが、この日記ではそのような飛び道具は用いずに、一般的な出版物で用いられるような範囲の文章的技法に限っておきたい。

ちなみにアサブロを選択したのは必然性がある。
ひとつはアサブロでは他の一般的なブログサービスと異なり、管理運営者に身元が知れていることである。だから、書く文章の内容には注意すべきであるし、プライバシーの観点でも繊細さがあるように私には感じられる。もちろんこれは個人差があるだろうから、ほかのアサブロブロガーを批判するものではない。
もうひとつは、アサブロがスマートフォン等の携帯端末向きの執筆環境でないことである。朝日ネットがパソコン通信だったからなおさらか、アサブロの執筆環境や表示などはパソコン向きであると思う。ひとことでいえば、レスポンシヴでない。そうすると書く文章の長さや性質も、例えば Twitter のようなスマートフォン向きのものとは異なり、長文で熟考型の文章の方が向いていると思うのだ。
そこで、アサブロを文章を書く実験に利用しようと思ったわけなのである。

日本語には句読点がなかった2022年10月27日 11時55分

谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)を読んだ。昔の日本語をしつこく称賛している。戦間期の世界恐慌ころの著述だから、国粋化の兆しが現れている世相だ。谷崎という偉い先生が世間の代弁をしてくれる。日本美化の言説をわざわざ批判する日本人は少ない。日露戦争でも勝ったつもりでいて、第一次世界大戦で「火事場泥棒」をして戦勝国になっただけなのに、思い上がっていた。太平洋戦争で敗けた後の日本人と異なり、省みる意識が欠けている。

だが谷崎は肝心なことを言及していない。

日本語には句読点がなかった、句読点のアイデアは欧米から輸入したものだ。博物館にでも行けば現物があるから判るだろう。今でも表彰状など格式ばった文章では句読点を入れないことがある、フリガナや返り点と同様に句読点も読み方案内にすぎず本文ではないからだ。
古文では文の切れ目がハッキリしない。
例えば消息、現代日本人がいう「手紙」でも句読点がないから読みにくい。「候」(さぶらふ)というのは「ございます」みたいなものだ。句点の代わりみたいな機能をもっている、だから「候」は文章の意味の切れ目にある。
文の切れ目が判らないのに主語等を省略するから、敬語に主語を示す機能がある。

日本語にも句読点が普及した。いまや、文末には句点「。」を常に入れなければならないと思いこんでいる日本人が多いほどだ。現代日本語には句読点という便利な読み方ガイドがある。「候」どころか敬語も必須というほどではない。むしろ饒舌、冗長だ。余分なものを削ぎ落とした方が平易な文章になり、意味や感情をより伝えやすい。「です」「ます」「である」でさえも「候」と似たようなものだろう。多用しない方がよいかもしれない。
同時に、不要ならば句読点を付けない方がよい。例えば、2文以上にわたらないなら句点は要らない、改行等で判るならば要らない。「モーニング娘。」はいわば商標として「。」を活用しているが、とりわけその頃から不要な句点が流行したような気がする。