改行するか否かの問題2023年02月21日 22時35分

小説の継続的な執筆を始めてから2か月ほど経ちました。

いまも考えて悩むことは多くありますが、ここでは改行をどこにどのくらい挿入するかの問題。

旧来の刊行書では、改行をなるべく省く作風や編集が多く見られます。
改行をやみくもに多くすると、紙幅のムダが増えます。紙の枚数が増えれば、コストの増大に加え、読者の便宜も悪化します。
また、改ページが増えるので、読者の手間が増えます。

他方のオンライン小説では、改行の挿入頻度がとても高い傾向にあります。
改行コード1つは、1文字とほぼ同じです。例えばCR+LFでも2バイトでしょう。日本語文字コードセットやUTF-8の1文字分のはずです。

もともと、パソコン通信の世界でも、「折返し」の発生しないように適宜に改行を入れることが「マナー」といわれていました。
折返しが発生すると読みづらいというのは、本来ならばクライアント端末側・読む人の側の問題のはずです。しかし、読みづらい事実状態が発生するのが多数派であったので、いかにも日本的ですが、多数派に合わせて同調圧力というか事実上の強制、つまり「マナー」とまでいわれていたのです。
また、掲示板(BBS)、フォーラムへの書き込みなどでは、ネタバレを避けるために大量の改行で埋めるという投稿が一般的に見られました。

パソコン通信、電子メール、それらにおける「マナー」は、『日本の』インターネットに持ち込まれました。
そもそも、日本の商用インターネットの普及が進んだのは、パソコン通信からインターネットへの移行によるものですから。大手パソコン通信ネットが、インターネットへのゲートウェイサービスや、インターネット接続プロバイダを始めたからです。
だから、ユーザ層が同じです。

オンライン小説はおそらく、「テキストサイト」(ブログより以前からある、ライト文芸的な日記など)からや、「ケータイ小説」(魔法のiらんど など)からなのでしょう。
「テキストサイト」でも、適度に改行を挿入して読みやすくする、
さらに、ネタバレ回避のために、オチなどの直前に大量に改行を入れることが行われていました。それに対して「紙の本」だったならば必然的に、改ページで見えなくすることが可能です。
「ケータイ小説」ですが、表示する端末が携帯電話の縦長で狭い画面ですから、短い文でも折り返しが発生しやすかったはずです。しかしそういう特殊な画面向けに書くということは、改行の入れ方には独特のテクニック、技巧があったのではないかと思います。

さて、現在のオンライン小説は、いわゆるスマートフォンで閲覧することが一般的になっています。「アプリ」またはモバイル版のブラウザです。
画面は縦長で横書きです。
パソコンでも横書き表示でしたが、「ケータイ」「スマホ」は画面が縦長の場合がほとんどです。だから、一行が狭いのです。
もうひとつ挙げれば、画面が小さいです。行間が詰まると読みにくく感じる傾向があるでしょう。
それが、改行を多く挿入する傾向につながったと考えています。

また、プロット(筋)重視で娯楽目的のオンライン小説、のちに小説のマンガ版みたいな位置づけで粗製濫造される「ライトノベル」になっていきますが、
そうした作品では、緻密な描写よりも、簡単な描写、速い展開にする傾向が強いと思います。
また、オンライン小説で素人の筆力で書くと、前後の脈絡を文章であらわす能力が不充分で、例えばセリフの主体や、いわゆる主語の交替などをあらわすのにも改行や空行を挿入するほうが判りやすくなります。

結局、オンライン小説では改行を多めに用いたほうが、読みやすいものになることが多いようです。


それで私は、改行の入れかたに悩んでいます。

改行を多めにして、
オンライン小説に特化して読者の端末側設定なしでも読みやすくするのか。

しかし、改行に頼っていると筆力が上がりにくくなります。
また、印刷する、商業出版の世界に合わせようとするならば、改行多用の原稿データは向いていない、使えない、ということになるでしょう。
プロの編集者が原稿をどのように捉えるでしょうか。オンライン小説から「書籍化」という例は多数ありますが、そのときには原稿の校正・書き直しが大量にあったかもしれません。

なるべく改行に頼らないで書いていきたいものなのですが、どうしても改行をしたほうがよいということも多くて、表現に悩んでいるのです。

日本語の読点の問題2023年02月05日 15時08分

和文(日本語の文章)で句読点が用いられた例は、遡れば安土桃山時代あたりのいわゆるキリシタン文書らしい。これは欧文のカンマ・ピリオドに倣ったものだろう。
点を振るのは元来、漢文のような外来語の訓みくだしかたを指導するためである。和文には用いなかった。

句読点が和文一般に普及したのは近代だ。

例えば小説は、ストーリーテリングつまり「話し語るもの」である。
だから、セリフはもちろんのこと、いわゆる地の文も、口語体(話し言葉)であっても当然だ。
話し言葉を文章にして、読者にも話し言葉として読んでもらうものである。
それで、書き言葉と話し言葉を一致させようという「言文一致運動」がおこった。

読点(、)は、意味の切れ目のみならず、話し言葉として「どこに間を置くか」の指示にも用いられる。
そのため、読点の挿入位置に一意解はなく、人それぞれでさまざまに「 揺れる」ものである。

例えば、「それはそれは、大きな建物でした」と書いてあれば、
・「それは」の1つめと2つめのあいだには、間を置かない
・2つめの「それは」と「大きな」のあいだには、間を置け
という指示である。

「あまおう、それは、イチゴの品種です」と書いてあれば、
・「あまおう」と「それは」のあいだの読点は、読みやすくするために挿入しただけの可能性がある
・「それは」と「イチゴ」のあいだには間を置け
ということになる。


小説は一般的に、地の文も話し言葉である。
だから、読点は多用されがちだ。
とりわけオンライン小説、投稿小説のように、アマチュアや素人の小説では、読点は多用されがちで、作者により挿入の作法はさまざまだ。
「明らかにおかしい」という「間違い」はありえても他方で、「正解」はない。

日本語の句読点と、欧文のピリオド・カンマは、同じものではない。
日本語における句読点の作法は難しい。

小説の字数制限2022年12月31日 18時17分

書くのは、長い小説のほうが難しいのです。

短い物語ならば素人でも書き易い。各種投稿サイトのコンテストなどでも制限文字数2000字以内というのがよくあるが、2000字以内というのはちょうど書き易い長さです。しかも短くても条件を満たせます。ショートショートに該当する長さのうちでも、400字の小説も普通に存在します。400字詰め原稿用紙1枚に収まる小説も普通に存在します。

長い物語を書くには、かかる気力も体力も膨大です。1冊の本を書き上げるのにも1年やそれ以上かかることもあります。書くほうは大変な労力がかかるのに、読者の中には1日やそこらで読み飛ばしてしまう人もおり、書くほうの大変さはマンガなどと同じように読者には必ずしもわかってもらえていないのでしょう。

他人に読んでもらえる長い物語を書くのは難しいことです。途中で飽きさせないようにせねばなりません。それは素人がだらだら書いているのでは不可能です。
短い物語のほうが、飽きる長さもないので読んでもらえる可能性が高くなります。

投稿サイトのコンテストでは「以内」が多いのに対して、出版社等の看板的な賞では「以上」です。賞に応募すること自体も大変なうえ、ましてや大賞を獲るのはもっと困難です。
それなのに、小説を書いたことのない素人には「以上」のほうが長さに制約がないのでラクだというように勘違いする人がいるでしょう。
しかし、長さに制約がない自由さがあるほうがかえって難しいのです。

日本語には句読点がなかった2022年10月27日 11時55分

谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)を読んだ。昔の日本語をしつこく称賛している。戦間期の世界恐慌ころの著述だから、国粋化の兆しが現れている世相だ。谷崎という偉い先生が世間の代弁をしてくれる。日本美化の言説をわざわざ批判する日本人は少ない。日露戦争でも勝ったつもりでいて、第一次世界大戦で「火事場泥棒」をして戦勝国になっただけなのに、思い上がっていた。太平洋戦争で敗けた後の日本人と異なり、省みる意識が欠けている。

だが谷崎は肝心なことを言及していない。

日本語には句読点がなかった、句読点のアイデアは欧米から輸入したものだ。博物館にでも行けば現物があるから判るだろう。今でも表彰状など格式ばった文章では句読点を入れないことがある、フリガナや返り点と同様に句読点も読み方案内にすぎず本文ではないからだ。
古文では文の切れ目がハッキリしない。
例えば消息、現代日本人がいう「手紙」でも句読点がないから読みにくい。「候」(さぶらふ)というのは「ございます」みたいなものだ。句点の代わりみたいな機能をもっている、だから「候」は文章の意味の切れ目にある。
文の切れ目が判らないのに主語等を省略するから、敬語に主語を示す機能がある。

日本語にも句読点が普及した。いまや、文末には句点「。」を常に入れなければならないと思いこんでいる日本人が多いほどだ。現代日本語には句読点という便利な読み方ガイドがある。「候」どころか敬語も必須というほどではない。むしろ饒舌、冗長だ。余分なものを削ぎ落とした方が平易な文章になり、意味や感情をより伝えやすい。「です」「ます」「である」でさえも「候」と似たようなものだろう。多用しない方がよいかもしれない。
同時に、不要ならば句読点を付けない方がよい。例えば、2文以上にわたらないなら句点は要らない、改行等で判るならば要らない。「モーニング娘。」はいわば商標として「。」を活用しているが、とりわけその頃から不要な句点が流行したような気がする。