エッセイのエッセイ2023年08月14日 18時09分

『文學界』9月号がエッセイについてのエッセイで特集をしている。
エッセイが大量に掲載されていると、まるで「ネタ切れか?」と思ってしまうような逆転感があるが。

エッセイについてのエッセイを書くうえで、そもそもエッセイとは何なのか?

清少納言の『枕草子』が完成した時点ですでに中宮定子はなくなっていたというから、『枕草子』は定子の在りし日々を回想した弔いなのだろう。
吉田兼好の『徒然草』や、天台座主の慈円のものと思しき『愚管抄』は、当時の社会事件を記録して思索し教訓を得ようとする真理追究の営みだったといえる。これらは仏教的な、科学的な、その意味での文学的な記録なのである。そんなだから、説教くささが鼻につくと思う人は多い。

西洋キリスト教圏ではいわゆる神学が頂点にあり、ほかの科学分野は神学に附随するものだった。いまもイスラーム圏ではイスラーム神学が頂点にあることは多い。
西洋近代の、信仰から科学を切り離していわば中立化させてからも、科学とは真理を追究する営みだ。
だから科学者にも信仰心の篤い人も多いが、これは矛盾していない。例えばキリスト教観でみれば、世界は創造主の意思で成り立っているから、科学とは創造主の意思を探究する営みである。

「随筆」というとまるで、筆者の私感をダラダラと書き連ねたもののように思われてしまう。しかし、『徒然草』をはじめ少なからぬ随筆やエッセイは科学的営みなのである。

ところでエッセイと小説では何が異なるのか。
エッセイは筆者の一人称で述べられる事実と思考である。
小説はフィクションでかまわず、結論がなくとも、モヤモヤしていてもかまわない。論理に裏打ちされていてもされていなくてもかまわない。ライトノベルやライト文芸、あるいは例えば『もぬけの考察』みたいな、「何も残らない」、センセーショナリズム、あるいは、サティの「家具調度品のような音楽」のような文章でもかまわない(『もぬけの考察』はマンガ的な、サティ的な、小説だと私は思う。新人賞が授賞されたが、異色だ。)

だから小説というだけならば、何でもアリに近い。
単に「おもしろい小説」を書きたいのならば、可能性は幅広く無限のようにあると思う。
そういうとまるで夢のような世界なのだが、しかし可能性が無数にあるなかでは、全てを活かして書くのは、ヒトの能力として限界があり無謀で無理がある。そうなると、可能性を選び取って絞り込んで集中する、書く目的や作風を特定することが必要になってくる。

たとえば慈円という天台座主がいたのは法華天台宗の比叡山だ。この比叡山というところは日本仏教の総合研究所みたいなところで、何でもアリだった。研究対象も修業法も無数にある。それをとにかくあれこれとやってみるという大変な世界だった。
それに対して、その比叡山を「卒業」して降りてしまった人に、法然房源空という浄土宗の元祖がいる。彼は、称名念仏ひとつを選び取って集中するのがよいと言った。つまり、ほかの可能性はあえて捨てるということだ。彼は人間が全能ではなく限界があることを認めたうえで、修業法を考えたわけである。

小説を書くにしても、ヒトの肉体と気力体力時間、人生の限りを考えれば、選び取って、ほかを捨てるということが、たぶん必要だ。
市川沙央氏はかつてライトなエンタメ小説を書き続けていたそうだが、市川氏の固有の境遇や個性を考慮したらやはり、ライトなエンタメ小説というほかの人でも書けて「替わりならばいくらでも居る」世界よりもやっぱり、純文学が正解だと、私は思う。

エッセイにしても、小説ではないにしても純文学にはなりうる。
むしろ、社会の理屈を批判して、筆者の視点から真理を探究して摘示する。その意図をもってしたならば、シッカリ純文学である。そしてそんなエッセイはたぶん、読んでいて愉快ではなく、往々にしてタブーに触れ、そして商業的にはあまり売れない。
けれどそういう文章が、社会を自浄していく。




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