2024年です2024年01月10日 14時19分

2024年になりました。よろしくお願いいたします。
人が亡くなるのにも、災害にも、暦はないものです。例年、1月1日に亡くなる人が出ますが、今回は件の能登の震災がありました。まだいずれは復興するときがくるでしょうけれど、いまはまだまだ、一刻も早い捜索完了や復旧完了、最低限の生活レベルの確保を望むような状況です。
世界は戦争もやっているわけですし、こうしてみてもどうにも祝う気分になれないものです。
祝うというのは、周りに目をつぶって忘れるということなのかもしれません。

1月1日に、『㈱迷子タクシー(東京)』の再公開、連載を始めました。
そして各作品の更新を続けて、一巡しました。
これで一服というところです。さすがに毎日公開を続ける身体的余裕がないもので……。

さて、世間は新年というと、いわゆる成人式が行われます(行われました)。
明治以降(近代)に満年齢ということで国家的に定められましたが、近世(江戸時代)までは数え年が一般的でした。数え年では、元日になれば誰もが歳をとります。
成人式は、武家制度と、日本国家主義の、融合。異様な存在です。
武家には元服の制度があります。それを全国民に普及させて、全国家的に二十歳で大人になる、という慣習を、日本政府がつくりあげました。
年齢は満年齢ということにしたくせに、成人式は数え年の発想で誰もが新年に歳をとる前提で、今年「二十歳」(←満年齢)になった人は新成人です、という理屈です。
暦はグレゴリオ暦(西暦)に変えたので、元日は西暦の1月1日に変更され、それで数え年では西暦の1月1日に歳をとることにしたわけです。
で、新成人になるのは元日なんでしょうが、しかし元日はまず年始の祝いと行事が先で詰まっています。
もともと「松の内」は正月の半月、十五日までです(でした)。元日に休めない人向けに、小正月というものがあります。「女は家事」という封建的な(武家的な)発想では、女正月ともいいます。
それで、小正月に成人式(元服式)をする。
で、戦後には、その小正月も祝日にした。それが、成人の日。
さらには、いわゆる「ハッピーマンデー」で、この小正月の暦を捨てて第2月曜日にまでしてしまったので、もはや意味不明です。

他方で、成人式自体が国家主義的制度で、しかも満年齢で見たら参加者の年齢がまちまちというわけのわからないことになっているので、
各市町村がめいめいに成人式という名称から変えて、テキトーにやるようになりました。それで例えば「成人の日を祝う集い」とかいうようなわけのわからないものになりました。
それでも他方で、江戸時代の武家文化を引き連れて羽織袴だ振袖だとやっているものですから、奇怪なものです。

そしてもちろん、18歳成人に改めましたよね!
しかしいわゆる成人式自体が、武家制度と近代国家主義の融合したキマイラなので、この慣習はあいかわらず二十歳が基準だというのが一般的なようです。
なので例えば「二十歳を祝う集い」みたいな名称にしたようですね。
カオス!

いや、そもそもがなんで、日本の全国民がみなあまねく横並びにおしなべて武家の慣習をやらされないといけないのでしょうか?? 文化の破滅です。近代明治政府の罪です。


さて、抑鬱アンニュイな話ばかりになっていてはなんなので。
日本語では年齢を言うときに「何歳です」といいますが、
例えば英語だと "be - old" ですよね。ドイツ語だと同じような発想で "sein - alt" のはずです。
それがフランス語だと avoir 、スペイン語だと tener というように、「持つ」という意味の動詞を用います。
これらは、言語的に感覚が異なることによるものです。
年齢は、英語やドイツ語では「何年古いです」(何年ものです)という主語の状態、フランス語やスペイン語では「何年経験した」という主語の経験だと捉えているわけです。
なので、英語やドイツ語では主語の状態を示すための動詞を用いますが、フランス語やスペイン語ではそうではない。be / sein に相当する主語の状態を示す動詞はフランス語では être 、スペイン語では estar ですが、それらは年齢には用いない。(ちなみにフランス語のアクサン シルコンフレックス(アクサン シルコンフルクス)は、かつてsがあったことを示す名残ですから、être はかつて entre だったはずで、するとフランス語とスペイン語で似通っていて語源が同じことに気がつかされます。)

他方の日本語ですが、「だ」「です」を歳にいきなり付ける。主語に対する補語(目的語)が「何歳」自体です。
日本はもともとは年齢は数え年なのですから、元日に誰もが一つ歳をとります。英語やドイツ語のような、主語の「何周年」の古さとは異なる発想なわけです。そして日本語はとても大雑把な言語で、「主語」「主格」とは呼ぶものの、実際には話題(主題)を示しています。
「私は二十歳です」は、「私のことについては、二十歳」ということです。例えば「私はコーヒー」「私はパン」みたいな文が成りたつように、「は」が付いている名詞は、厳密には主語とは呼べないものです。

こういう言語的感覚の相異があるわけですから、こうした発想を感じとることが、言語習得には効果的です。効率よく習得するには、体得だけではなくて、論理的に理解するのがコツだといえます。



End of the year 20232023年12月31日 14時46分

2023年ももうすぐ終わります。
締めくくりに短編小説『メンドクサイ彼女』を投稿しました(全26000字弱。完結)。

私事ですが、身体の具合が急速に悪化した一年でした。
もともと、数値のうえでは若くても、ボロボロの心身です。
この一年で、内臓がかなり弱ったことを思い知らされました。
これからもなんとかいけるところまでは生きているつもりです。

アホキャラでも有名な坂田利夫師が亡くなったそうですが、
そうしたことを聞くにつけ、人はいずれ必ず死ぬものだということを繰り返し繰り返し思い知らされるものです。
しょうがないものです。

傷つけられ続けて、痛くて苦しくて、それでも永遠に生きていなければならないのだとしたら、いずれ死ぬほうが少しばかりの救い、私としてはそういつも思っています。

来月は、『㈱迷子タクシー(東京)』の移転再公開と、続きの執筆をしようと思っています。
長編連載『色々ありすぎて解けない』はまだまだ長く続くのですが、生きているうちに完結したいものです……。

来年もよろしくお願いいたします。

公共図書館と「マチズモ」2023年08月26日 23時14分

公共図書館は、少なくとも本来は、無料のレジャー施設ではありません。

公共図書館は教養の集積地で、デモクラシーの牙城です。
だから、被差別階級(いわゆる社会的弱者、マイノリティ)にこそ利用しやすくする必要があります。例えば貧困層や女性はもとより、盲聾や、いわゆる「障害者」や、就労不能者、もちろんセクシャルマイノリティ(セクマイ)などにこそアクセスしやすく、障壁を可及的になくしていくことが重要です。
他方の恵まれている支配階級側(マジョリティ)は、書籍も新聞も買えるでしょうし、情報へのアクセスにも障壁がないことが多いでしょう。
マイノリティは公共図書館で、教養をしいれて、公開されている情報を入手して、それで政治参加するのです。

貧困だと新聞も買えないでしょう。きょうびはオンラインでも、無料だと読める記事に限りがあります。
貧困の高齢者が図書館に居座っているのはもう、日本全国各地で一般的なことです。しかしそれも、老後の生活資金が足りないで、限られた予算でやりくりして、さらには死ぬまでにかかる医療費・介護費を確保しようと思えば、新聞を買わないことにもなんの不思議もありません。

新聞にせよ本にせよ、問題の所在は、
「なんでタダで読んでいるんだよ、それじゃあ売れないだろ」ではなくて、
まず、買うお金がないことなのです。
貧困自体をなくすのが理想です。

とはいっても、貧困を皆無にすることは不可能でしょうから、公共図書館はセーフティネットとしていつまでも必要なんだ、ということなのです。

「貧困だから買えない、だから貧困にならない社会にしたい」と、そう思っても、「貧困だから政治参加能力がない、教養がなくて情報もなくて、なにもわからない」では、どうしようもありません。
政治をあらためる突破口が必要なのです。

だから、公共図書館はデモクラシー政治のセーフティネットなので裏を返せば、公共図書館は政権の正当性のために必要な存在です。
それを、「税金がかかる」「タダで本を読むレジャー施設になっている」という理由で非難の標的にするのであれば、それは居直りというものでしょう。
本が売れない、タダで利用する貧困者が癪だ、というのであればまず、貧困を減らさなければなりません。


それとは別に、書籍がなかなか音声化や点字化もされず、電子化もされていないというのも深刻な問題です。
同じように、図書館に行けない人への配慮、黙って静かに居られない人への配慮も必要です。
彼らも、政治参加する仲間なのですし、同じ、人です。だからコストをかけてでも優遇するくらいでないと、彼らにはサービスに手が届きません。
しかし例えば市川沙央氏も指摘しているように、日本では、本を読む環境には「マチズモ」があります。


さて、公共図書館はマイノリティにとって生命線なのです。
図書館にいても責められない、プライバシーを詮索されない、そういう「駆け込み寺」のような機能が結果的に求められます。
例えば、登校せずに図書館にいても詮索されない、というのもそうです。
貧困でも、「障害者」でも、差別されず、むしろ優遇されて公平に扱われるくらいでなければなりません。
「身障者用トイレ」を設置することもそうです。
そして、市川氏が指摘するように、身障者用トイレにジェンダーがないこともおかしいのですけれども、
他方でトイレがジェンダーバイナリであることもおかしいのです。

「身障者」「盲人」みたいな場合は、見たら判るようから、日本ではいくらか配慮されることはあります。市川氏だって、プロフィールや写真で示せば、そういう境遇にある人だって判ります。(反対に、隠して「ライトなエンタメ小説」を書いているだけでは、「安全」かもしれませんけれど、ほか大多数のなかに埋もれます。)
しかし、見たら判らない場合は、多くは「可視化」されておらず、「理解」もされない。むしろ「よく判らない」「気持ち悪い」人間だということで虐待を受ける、迫害を受ける。
それで、いかに「シッポ」を出さないか。隠れて懸命に社会生活をしていかなくてはいけない。
そして日本の公共図書館は、その「駆け込み寺」として機能しているかというと、そのようにはあまり思えません。

エッセイのエッセイ2023年08月14日 18時09分

『文學界』9月号がエッセイについてのエッセイで特集をしている。
エッセイが大量に掲載されていると、まるで「ネタ切れか?」と思ってしまうような逆転感があるが。

エッセイについてのエッセイを書くうえで、そもそもエッセイとは何なのか?

清少納言の『枕草子』が完成した時点ですでに中宮定子はなくなっていたというから、『枕草子』は定子の在りし日々を回想した弔いなのだろう。
吉田兼好の『徒然草』や、天台座主の慈円のものと思しき『愚管抄』は、当時の社会事件を記録して思索し教訓を得ようとする真理追究の営みだったといえる。これらは仏教的な、科学的な、その意味での文学的な記録なのである。そんなだから、説教くささが鼻につくと思う人は多い。

西洋キリスト教圏ではいわゆる神学が頂点にあり、ほかの科学分野は神学に附随するものだった。いまもイスラーム圏ではイスラーム神学が頂点にあることは多い。
西洋近代の、信仰から科学を切り離していわば中立化させてからも、科学とは真理を追究する営みだ。
だから科学者にも信仰心の篤い人も多いが、これは矛盾していない。例えばキリスト教観でみれば、世界は創造主の意思で成り立っているから、科学とは創造主の意思を探究する営みである。

「随筆」というとまるで、筆者の私感をダラダラと書き連ねたもののように思われてしまう。しかし、『徒然草』をはじめ少なからぬ随筆やエッセイは科学的営みなのである。

ところでエッセイと小説では何が異なるのか。
エッセイは筆者の一人称で述べられる事実と思考である。
小説はフィクションでかまわず、結論がなくとも、モヤモヤしていてもかまわない。論理に裏打ちされていてもされていなくてもかまわない。ライトノベルやライト文芸、あるいは例えば『もぬけの考察』みたいな、「何も残らない」、センセーショナリズム、あるいは、サティの「家具調度品のような音楽」のような文章でもかまわない(『もぬけの考察』はマンガ的な、サティ的な、小説だと私は思う。新人賞が授賞されたが、異色だ。)

だから小説というだけならば、何でもアリに近い。
単に「おもしろい小説」を書きたいのならば、可能性は幅広く無限のようにあると思う。
そういうとまるで夢のような世界なのだが、しかし可能性が無数にあるなかでは、全てを活かして書くのは、ヒトの能力として限界があり無謀で無理がある。そうなると、可能性を選び取って絞り込んで集中する、書く目的や作風を特定することが必要になってくる。

たとえば慈円という天台座主がいたのは法華天台宗の比叡山だ。この比叡山というところは日本仏教の総合研究所みたいなところで、何でもアリだった。研究対象も修業法も無数にある。それをとにかくあれこれとやってみるという大変な世界だった。
それに対して、その比叡山を「卒業」して降りてしまった人に、法然房源空という浄土宗の元祖がいる。彼は、称名念仏ひとつを選び取って集中するのがよいと言った。つまり、ほかの可能性はあえて捨てるということだ。彼は人間が全能ではなく限界があることを認めたうえで、修業法を考えたわけである。

小説を書くにしても、ヒトの肉体と気力体力時間、人生の限りを考えれば、選び取って、ほかを捨てるということが、たぶん必要だ。
市川沙央氏はかつてライトなエンタメ小説を書き続けていたそうだが、市川氏の固有の境遇や個性を考慮したらやはり、ライトなエンタメ小説というほかの人でも書けて「替わりならばいくらでも居る」世界よりもやっぱり、純文学が正解だと、私は思う。

エッセイにしても、小説ではないにしても純文学にはなりうる。
むしろ、社会の理屈を批判して、筆者の視点から真理を探究して摘示する。その意図をもってしたならば、シッカリ純文学である。そしてそんなエッセイはたぶん、読んでいて愉快ではなく、往々にしてタブーに触れ、そして商業的にはあまり売れない。
けれどそういう文章が、社会を自浄していく。




改行するか否かの問題2023年02月21日 22時35分

小説の継続的な執筆を始めてから2か月ほど経ちました。

いまも考えて悩むことは多くありますが、ここでは改行をどこにどのくらい挿入するかの問題。

旧来の刊行書では、改行をなるべく省く作風や編集が多く見られます。
改行をやみくもに多くすると、紙幅のムダが増えます。紙の枚数が増えれば、コストの増大に加え、読者の便宜も悪化します。
また、改ページが増えるので、読者の手間が増えます。

他方のオンライン小説では、改行の挿入頻度がとても高い傾向にあります。
改行コード1つは、1文字とほぼ同じです。例えばCR+LFでも2バイトでしょう。日本語文字コードセットやUTF-8の1文字分のはずです。

もともと、パソコン通信の世界でも、「折返し」の発生しないように適宜に改行を入れることが「マナー」といわれていました。
折返しが発生すると読みづらいというのは、本来ならばクライアント端末側・読む人の側の問題のはずです。しかし、読みづらい事実状態が発生するのが多数派であったので、いかにも日本的ですが、多数派に合わせて同調圧力というか事実上の強制、つまり「マナー」とまでいわれていたのです。
また、掲示板(BBS)、フォーラムへの書き込みなどでは、ネタバレを避けるために大量の改行で埋めるという投稿が一般的に見られました。

パソコン通信、電子メール、それらにおける「マナー」は、『日本の』インターネットに持ち込まれました。
そもそも、日本の商用インターネットの普及が進んだのは、パソコン通信からインターネットへの移行によるものですから。大手パソコン通信ネットが、インターネットへのゲートウェイサービスや、インターネット接続プロバイダを始めたからです。
だから、ユーザ層が同じです。

オンライン小説はおそらく、「テキストサイト」(ブログより以前からある、ライト文芸的な日記など)からや、「ケータイ小説」(魔法のiらんど など)からなのでしょう。
「テキストサイト」でも、適度に改行を挿入して読みやすくする、
さらに、ネタバレ回避のために、オチなどの直前に大量に改行を入れることが行われていました。それに対して「紙の本」だったならば必然的に、改ページで見えなくすることが可能です。
「ケータイ小説」ですが、表示する端末が携帯電話の縦長で狭い画面ですから、短い文でも折り返しが発生しやすかったはずです。しかしそういう特殊な画面向けに書くということは、改行の入れ方には独特のテクニック、技巧があったのではないかと思います。

さて、現在のオンライン小説は、いわゆるスマートフォンで閲覧することが一般的になっています。「アプリ」またはモバイル版のブラウザです。
画面は縦長で横書きです。
パソコンでも横書き表示でしたが、「ケータイ」「スマホ」は画面が縦長の場合がほとんどです。だから、一行が狭いのです。
もうひとつ挙げれば、画面が小さいです。行間が詰まると読みにくく感じる傾向があるでしょう。
それが、改行を多く挿入する傾向につながったと考えています。

また、プロット(筋)重視で娯楽目的のオンライン小説、のちに小説のマンガ版みたいな位置づけで粗製濫造される「ライトノベル」になっていきますが、
そうした作品では、緻密な描写よりも、簡単な描写、速い展開にする傾向が強いと思います。
また、オンライン小説で素人の筆力で書くと、前後の脈絡を文章であらわす能力が不充分で、例えばセリフの主体や、いわゆる主語の交替などをあらわすのにも改行や空行を挿入するほうが判りやすくなります。

結局、オンライン小説では改行を多めに用いたほうが、読みやすいものになることが多いようです。


それで私は、改行の入れかたに悩んでいます。

改行を多めにして、
オンライン小説に特化して読者の端末側設定なしでも読みやすくするのか。

しかし、改行に頼っていると筆力が上がりにくくなります。
また、印刷する、商業出版の世界に合わせようとするならば、改行多用の原稿データは向いていない、使えない、ということになるでしょう。
プロの編集者が原稿をどのように捉えるでしょうか。オンライン小説から「書籍化」という例は多数ありますが、そのときには原稿の校正・書き直しが大量にあったかもしれません。

なるべく改行に頼らないで書いていきたいものなのですが、どうしても改行をしたほうがよいということも多くて、表現に悩んでいるのです。