日本語には句読点がなかった ― 2022年10月27日 11時55分
谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)を読んだ。昔の日本語をしつこく称賛している。戦間期の世界恐慌ころの著述だから、国粋化の兆しが現れている世相だ。谷崎という偉い先生が世間の代弁をしてくれる。日本美化の言説をわざわざ批判する日本人は少ない。日露戦争でも勝ったつもりでいて、第一次世界大戦で「火事場泥棒」をして戦勝国になっただけなのに、思い上がっていた。太平洋戦争で敗けた後の日本人と異なり、省みる意識が欠けている。
だが谷崎は肝心なことを言及していない。
日本語には句読点がなかった、句読点のアイデアは欧米から輸入したものだ。博物館にでも行けば現物があるから判るだろう。今でも表彰状など格式ばった文章では句読点を入れないことがある、フリガナや返り点と同様に句読点も読み方案内にすぎず本文ではないからだ。
古文では文の切れ目がハッキリしない。
例えば消息、現代日本人がいう「手紙」でも句読点がないから読みにくい。「候」(さぶらふ)というのは「ございます」みたいなものだ。句点の代わりみたいな機能をもっている、だから「候」は文章の意味の切れ目にある。
文の切れ目が判らないのに主語等を省略するから、敬語に主語を示す機能がある。
日本語にも句読点が普及した。いまや、文末には句点「。」を常に入れなければならないと思いこんでいる日本人が多いほどだ。現代日本語には句読点という便利な読み方ガイドがある。「候」どころか敬語も必須というほどではない。むしろ饒舌、冗長だ。余分なものを削ぎ落とした方が平易な文章になり、意味や感情をより伝えやすい。「です」「ます」「である」でさえも「候」と似たようなものだろう。多用しない方がよいかもしれない。
同時に、不要ならば句読点を付けない方がよい。例えば、2文以上にわたらないなら句点は要らない、改行等で判るならば要らない。「モーニング娘。」はいわば商標として「。」を活用しているが、とりわけその頃から不要な句点が流行したような気がする。
だが谷崎は肝心なことを言及していない。
日本語には句読点がなかった、句読点のアイデアは欧米から輸入したものだ。博物館にでも行けば現物があるから判るだろう。今でも表彰状など格式ばった文章では句読点を入れないことがある、フリガナや返り点と同様に句読点も読み方案内にすぎず本文ではないからだ。
古文では文の切れ目がハッキリしない。
例えば消息、現代日本人がいう「手紙」でも句読点がないから読みにくい。「候」(さぶらふ)というのは「ございます」みたいなものだ。句点の代わりみたいな機能をもっている、だから「候」は文章の意味の切れ目にある。
文の切れ目が判らないのに主語等を省略するから、敬語に主語を示す機能がある。
日本語にも句読点が普及した。いまや、文末には句点「。」を常に入れなければならないと思いこんでいる日本人が多いほどだ。現代日本語には句読点という便利な読み方ガイドがある。「候」どころか敬語も必須というほどではない。むしろ饒舌、冗長だ。余分なものを削ぎ落とした方が平易な文章になり、意味や感情をより伝えやすい。「です」「ます」「である」でさえも「候」と似たようなものだろう。多用しない方がよいかもしれない。
同時に、不要ならば句読点を付けない方がよい。例えば、2文以上にわたらないなら句点は要らない、改行等で判るならば要らない。「モーニング娘。」はいわば商標として「。」を活用しているが、とりわけその頃から不要な句点が流行したような気がする。